言葉はいるのか?(まとまりのない思考その2)

言葉は、必要か?と最近とっても感じている。
というのも僕には恋人がいるのだけれど、彼女に対して例えば「大好き」「愛している」という感情をつねに抱いているのは、これはもう間違いない(だって、まだ付き合って1ヶ月のホヤホヤなもんでして…なんか、ごめんなさい)。そして、僕と彼女とはよく携帯電話のメールを通じて、逢えない日などは互いに連絡を取り合っているのだけれど、メールで「大好き」「愛している」などといった感情を伝えるのは、これはとってもムヅカシイなあと感じる。そして、それは直接対面して伝えたとしても、果たして僕の気持ちは伝わっているのだろうか?とも思うのだ。


そこで僕は(半ば無理矢理)論理的に考えてみようと思って、以下のことを思いついた。そもそも「言葉」とは、それだけでは存在しえず、ある程度文脈依存的なのではないだろうか。例えば「好き」という言葉を発したとして、その言葉を発する前後に、発した主体がいかなる言動を示すか?が問題になってくるのだと思う。ただ単に「好き」という言葉は、それだけでは存在しえないのではないか?有名店で海老フライを食べたデートの帰り際に「好き」と発したとしても、彼女にとってみれば「ハァ〜?なにが好きなの?海老フライが好きなの?」みたいなことにもなりかねないのだ。まじで。いや、まじで!


とりわけ動詞の場合、それは行動を示すのであって、そこに行動が付随していなければ、言葉(動詞)はチカラを持ち得ない。彼女を前にして、立ち小便をしながら「好きだ」なんて言ったとしても「氏ね」とあしらわれておしまいなのだ(これは極端な例だけど)。でも、最低ぎゅっと抱きしめながら「好き」と発することによって、やっと「好き」という言葉は相手に伝わる可能性を有する言葉になり得るのだ。けれども、そこまでしても時には「伝わってないよなあ」なんて思う。


そもそもの問題は、「好き」という感情と「好き」という言葉はイコールで結ばれるのだろうか?ということにある。これも、またまた(まとまりのない思考その1のごとく)ありきたりな悩みなんだろうけれど……でも、よく言われるように「言葉にできない」感情みたいなのは、やっぱり人間のうちには存在するものだ。それは、言葉の器に盛りきることのできない、なんだか自分でもよくわからないカオスなのだ(言葉は、ある程度整理整頓された思考を好む傾向があるだろう)。


うーん、これもまた僕の思考そのものがカオス。言語化できない(笑)


けっきょく、言葉を発してしっくりくる!と思うときは、その言葉自体の「器の大きさ」にピッタリ合った感情を盛りつけることができた時なんだと思う。僕はまだまだ青二才なので…器をうまく使いこなすことができない。言葉の器…か。