傲慢

妻と喧嘩ばかりしている。

原因こそ色々あれど、
喧嘩に至るまでの流れはいつも決まっている。


彼女が不機嫌になり、
それに対する僕の対応が思い通りではなく、
彼女は余計にイライラが募っていき、ついには爆発。


そこで、まだ上手く宥めることができれば良いのだが、
売り言葉に買い言葉。


「いつまでもわたしを無視するから」
という理由が、彼女が怒るもっとも大きな原因の1つらしい。


しかし、僕としても彼女を怒らせたくはない。
彼女が怒ってしまったら、どんでもないことになる。
だから、まだ怒りが爆発していない、不機嫌の段階で
彼女に声をかけようとする。


例えば、彼女が不機嫌になる理由として最近では、
彼女の趣味である園芸の、大切にしている鉢が
強風で倒れ、3つほど割れて壊れてしまったこと。


大事なものが壊れてしまい、ショックを受ける彼女に対して、
「大事な物が壊れてショックだろうけど、今後も必要なものだろうし、また新しい鉢を買えばいいよ。お金は僕の方で出してあげるから。」
と言うが、やはり壊れたショックが大きいのか、
ベッドに沈んで塞ぎ込んでしまう始末。


「次は鉢が倒れないよう工夫しなきゃだめだね」
「鉢は運ぶのも重たいだろうから、いますぐ鉢が必要なら僕がホームセンターにでも買いに行ってあげるし、もしネット通販で欲しいのが見つかれば頼んでおいて良いよ」
などなど、声をかけるが不機嫌は収まらず、
「もういい」
「そんなことしなくてもいい」
と言いながら、余計に沈み込む一方。


そこで、声をかけてばかりというのも鬱陶しいのかもしれないと思い、
僕の方でもパソコンで通販の鉢を検索してみることにした。


しかし、その間が彼女にとってみれば、
「わたしを無視して、他でパソコンをいじっている」と思わせてしまい、
ますます不機嫌が膨れ上がって、ついには爆発しまうこととなった。


「わたしが不機嫌なのを知っていて、放っておいて何も解決しようとしない」
というのが、彼女がいつも僕に対して感じる不満のようだ。


僕の立場からすれば、彼女の不機嫌を直そうと、
「壊れてしまった鉢は、お金を気にせずに買い直しても良い」
「鉢を運ぶのも辛いだろうし、休日(その日)に僕が買いにいく」
「一緒になって、いい感じの鉢を探してあげよう」
という気持ちから、落ち込む彼女に色々と声をかけたりするのだが、
彼女にとっては、それは望むことではないらしく「もういい」の一点張り。


自分で言ってしまうのも可笑しいが、
この「親切心」は、すべて無駄なのだろうか。
常に彼女の望む回答を差し出さねばならないのだろうか。


僕は、僕なりに熟考して言葉を選び、
励ましてあげようと、次に進めるようなきっかけを探しているのだが、
なかなか、彼女の気持ちは前に動こうとしない。


その時の僕の声かけが、望むものではなかったとはいえ、
望むものでない、ということがイコール「わたしの気持ちをわかっていない」
という結論に、いつも至ってしまうようだ。


これも、自己中な考えだとは重々承知だが、
もし僕が落ち込んでいる時に、彼女が声をかけてくれたとして、
それがあまりに的外れでない言葉でなければ、僕としては
「ありがとう」という気持ちを表すと思う。
もし、それが望む形でなかったとしても、
「ありがとう。でもいまはそうじゃないんだ」というような形で。
何か僕のために頑張ってくれている、というその気持ちが、
嬉しいと感じるだろうのにな、と感じてしまう。


おそらく、そういった僕の考え方を、彼女にも当て嵌めているのだろう。
「僕が親切にしているのに、なぜ無視をして、そのうえ怒るんだ」と。
こう書いてしまえば、自己中心的な考えのほか、なにものでもないが、
しかし、最中ではやはりこっちも必死、相手も必死。
僕:「どうしたら機嫌を直すだろう」
彼女:「なぜわかってくれないんだろう」
といった思考回路のみで動いてしまい、俯瞰したところから状況を見ることができなくなってしまっているのだと思う。


ついには彼女も痺れを切らしてしまい、
「もういい。何を言っても無駄なんだからね」
とプイとして、その場を後にしてしまう(トイレなどに行く)。


そして戻ってくるやいなや、
「いま何時だと思っているの。このせいで1日無駄にしてしまった」
「いや、無視してたわけじゃないんだよ。一緒に鉢を探そうと思って・・・」
「うるさい!そんなことはどうでもいい!なんで早く解決しないのか言え!」
「解決って・・・沈み込んでたから色々と僕も協力しようと思っていたよ」
「そんなのはどうでもいいって言ったでしょ!」
となり、彼女は叫んでしまう。そして叫んだこと(叫ばされてしまったこと)に対してますます怒りを膨らます。
「ほら!また叫ばした!もうわたしに叫ばさないって約束したのに!」
「いや、ちょっと一旦落ち着いてよ・・・!」
「いや!落ち着くもなにもなんでこんなことをするの!」


と、もう何を言っても何をしても怒りを助長させてしまうだけのモードに彼女はなってしまうのである。僕は彼女が怒っている理由をいつも「勘違い(お互いの考えの相違)」だと思って、「放っておいたんじゃないよ」「どうでもいいなんて思ってないよ」などと誤解を解いてあげようとおもうのだが、この行為も怒った彼女にはすべて言い訳に聞こえるらしく、「そんなことはどうでもいい!」とはねのける始末。


おそらく、ここで僕が「彼女は誤解で怒っている」という考え、そしてその「誤解を解いてあげよう」という考えからくる発言もまた、良くなかったのかもしれない。


誤解させてしまったのは僕だし、誤解されるような形で伝えてしまったいたことに対して反省をしなければならなかった。
しかし、おそらくそこで「誤解を与えるようなことをしてごめん」と言ったとしても、おそらく彼女の怒りは収まるどころか、それすらも「言い訳」として感じ取ることだろう。


じゃあ、そのとき僕は一体、どうすればいいんだろう。


ついには暴れて家を飛び出ようとする彼女。
抑えようとすると「今度は力づくで抑えるのか!暴力!わたしの自由がない!」
と、とうとう発狂に近い様子になる。
もう、こうなったら彼女を宥めることはできない。


彼女の怒りを抑えようと、また彼女の不機嫌を直そうとして行う僕の言動はすべて裏目に出てしまうようだ。


彼女は、鉢が割れてしまったショックよりも、
鉢が割れてショックを受ける自分をどうにもできない僕にたいして、
イライラしていたのかもしれない。


彼女の他者依存的な性格を重々承知で、
夫婦として一緒にいるのだが、
事情は伏せるが、僕しか頼るべき人のいない彼女にとって、
僕が100%になっているのだとおもう。
僕が対処できない、イコールどうにもならない。
僕がわたしを理解していない、イコール誰も理解してくれない。
どうにもならない、誰も理解してくれないこの世界で、
わたしは1人きりだ。という思考回路に陥ってしまうようだ。


こんなことを、つらつらと書いても仕方がない。
妻のことを救ってあげたいという、自己満かもしれないが、
救ってあげられるのは僕だけしかいない、ここで見放してしまえば、
頼るべきところもない彼女は最悪、どうなってしまうかわからない。


この文章を書いて得られた自分のミスは、おそらく傲慢さだ。


「僕が親切にしているのに、なぜ無視するんだ」という傲慢。
「誤解で怒っているなら、その誤解を解いてあげよう」という傲慢。


きっと僕は、傲慢だったんだ。
同じ目線に立っていると思いながらも、冷静になろうと思えば思うほど、
高いところから、無意識で彼女を見下していたに違いない。
怒っているという事実は、どうあれ僕が怒らせてしまったという事実だ。


文章に表してみてみると、わかる。
彼女の気持ちに全然寄り添うことができていなかったじゃないか。
しっかりしろ。自分。

処世術

咄嗟に怒りを覚えたら、大きく深呼吸をする。
「いつか死のう」と考えながら生きるのは処世術のひとつだ。
人間関係とは相手と「分かり合えない」を前提に始めていくこと。
友人であれ、親子であれ、夫婦であれ。
相手が自分の気持ちを分かってくれないように、自分も相手の気持ちを分かっていない。
つまり「分かり合う」とは幻想である。
幸せとは幻想である。


しかし一緒に「分かり合える」という幻想(幸せ)を見れる相手であれば良い。
全ての怒りは自分に返ってき、損を招く最たる原因となる。
論理で、世界は全て説明しきれない。
人の感情という世界があり、
論理では結び付けられない原因と結果が存在する。
論理とは、ただあるひとつの視点にすぎない。


愛とは全てを受け入れる、強靭か、もしくは脆弱な臓器である。
怒りにまかせて自分の鬱憤を晴らすものではない。
怒りによる全ての言動は、なんであれ必ず良い結果を生まない。
怒りもまた、幸せと同様、一時の幻想である。
怒りは幻想であり、怒りにまかせて発せられた発言もまた
幸せの戯言と同じく、怒りの戯言である。
本当の言葉など存在しない。本当の感情もまた実には存在しない。
言葉と感情は、そのつどのコンテクストによって都度変化するものである。
怒りは、幻想である。


本当の事など存在しない。
全ては幻想である。
しかし、それは絶望ではない。
すべてが死にいくように、
それは一種の処世術である。


推論は論理の賜物である。
しかし他者への推論は全て独我論である。
感情は変化するものであり、つねに一定ではない。
全ては、幻想の世界に浮かぶ。

自傷行為について

つくづく、恋愛はむずかしいものだ。


「恋人は自分自身の合わせ鏡」とはよく言うが、
近ごろ(20代も後半にして)、恋愛を通じて自分でも知らなかった自分自身の性格を知った。


それは「自傷癖」である。
なにか自分にとって不都合なことが起こり、過度にストレスを感じると、髪の毛を掻きむしることに始まり、大声で叫ぶ、わめく、モノにあたる、さらには自分で自分の頭や顔、足、腕などを殴りつけてしまったり、その度にアザや傷をつくってしまう。


こうした状態になってしまうことはこれまでも幾度となくあったが、
特に最近になって症状(?)が酷くなっているように感じる。
先日、自分でもほとんど無意識のうちに自分の頭を殴っていたと気が付いた途端、
「これはまずい」と思った。
よく「自傷行為」といえば、手首を切ること(リストカット)がイメージとして先行されるが、
手首を切るというところまではいかず、
私の場合あくまで「自分で自分を殴る」ことに固執するようだ。


その原因にあるのが「ストレス」だというのは、十重に承知している。
そのストレスが、恋愛によるものだということも判っている。
原因が判っていれば解決も早いのでは、と思いがちだが、
そううまくことが運べば、そもそもストレスを溜めることも無い訳だし、
そううまくことが運ばないのもまた、恋愛の特性ではないかと思うのだ。うん。


ストレスの理由に関しては、あまりに個人的な話題のため詳細は伏せたいが、
簡単に言えば、男女間でよく起こりうる「認識の相違」に端を発するのではないかと思う。
相手の気持ちをうまく受け止めてあげることができなかったり、
逆に、こちらの言いたいことが相手にうまく伝えられなかったり、
そういった日常のささいな(けれども大きな)ズレが、お互いにストレスとなってしまい、
その度に私の心の中で、怒りとも悔しさとも言いがたい、
なにか「言いたい事があるのに言えない(何と言えばよいのかわからない)」もどかしさに襲われてしまい、挙げ句自分自身を殴ってしまうという行動に出るようなのだ。
※恥ずかしい話、つい先日に至ってはこのような自傷行為をした挙げ句、栓が抜けたように「もう限界だ」と呟くや否や、号泣してしまった。全身が震え、顔がくしゃくしゃになる程に泣きはらしてしまった。ハタチを過ぎてあれだけの量の涙が流れるとは、我ながらびっくりした。


その度に、自分自身はもちろんだが、なにより相手を追いつめてしまうことが辛い。
そばで、好きな相手が怒りにかまけて自分自身を思い切り殴っている姿を見ることは、
考え込むまでもなく、とても辛い光景であることは間違いないのだ。
また同時に、あまりの激昂に自分自身しか見えていないその様に、
「この人は私のことよりも、自分のことしか考えていない」と感じさせてしまい、
相手にとっても余計にやり場のない気持ちを募らせる一方だろう。


これまでも、1度や2度ならず、何度も何度もそういったことを繰り返してしまい、
その度に「もう次は絶対にしない!」と心に刻むのだが、
ふと、なにかの拍子に気持ちのすれ違いがあり、言い合いになった途端、
ほとんど無意識に、また自分の頭を叩いてしまっているのである。
いつも我に返ってから、本当に情けない気持ちになってしまう。


ちなみに、普段は本当に仲のいい2人だとおもう。
共通の趣味もあり、好きなこと、嫌いなもことの相性も割と合うのではと感じている。
お互いに互いを気遣いながら過ごしているともおもうし、
相手も私のことをよく気遣ってくれていると感じる。
だからこそ、と言うべきか。
ふとした拍子、互いにズレた時の感覚が、互いに許せなくなってしまうのかもしれない。


一度、心療内科へ足を向けてみようと考えている。
原因はどうあれ、私の行為は決して健全ではないことは明らかだ。
どうにかして自分で治そうとしてみたが、意識のレベルではもう治せない問題なのだということに、ようやく最近になって気がついた途端、病院での診察という選択肢が浮かんできた。


カウンセリングでも投薬でも、もうなんでも構わないので、
この症状を治すためには、第三者の手助けが必要なのだと気付いた。


心の問題は、気の持ちようだという声もあるが、
それができていれば、はなから何も悩む事は無い。
(そもそも、なんの悩みもない人なんてこの世にいるのだろうか)


自分では、どうにも限界である。
治していきたい。
治って、また彼女と一緒に仲良く笑って過ごしていたい。