2011-01-01から1年間の記事一覧
物語、とは伝説 共同体がタブーとして排斥したもの。都市伝説 都市がタブーとして排斥したもの。 (どこか奇形の雰囲気あり) 歴史。 歴史をかたる行為差別。土地と、そこに住む人々。 身分、家柄、場所性などなどの「高低(のひずみ)」が 物語をうむ 物語 …
3月11日を境に変化した物事がある。大きい物事から些細な習慣まで、多かれ少なかれぼくたちを取り囲む世界は日々変化し続けているのだが、今回はとても個人的な変化について述べてみたい。ぼくの、震災以降の「ニコニコ動画(以下:ニコ動)」への興味・…
「がんばろう!日本」 震災後すぐに、このような標語をよく見かけるようになった。ポスターや広告、商店街の店先、さらには企業のHPやパンフレットにも、上記の標語を見たことがある。 とここで、さっそく愚痴で申し訳ないが、そもそも標語とは何のためにあ…
そもそも、僕はなぜ今こうして文章を書いているのだろう。およそ半年が経過した今、地震について、何か僕なりに思ったことや考えたことを記さねばいけない、という想いにかられたのは、なぜだろう?いや、その理由を探す為に、ぼくはこうして文章を書いてい…
③に引き続き、震災当日の「ラジオ」の話についてもう少しだけ考えてみたい。 震災から数週間、ラジオのDJ達は、自分が「語ること」に対して、これ以上なく躊躇していたようにおもう。少なくとも、ぼくにはそう感じとれた。 そもそもラジオというのは「音」の…
9月11日、地震から丁度半年の節目を迎えた。 テレビや新聞では今だ地震にまつわるニュースが途絶える事なく、ネットもまた同様である。ツイッターでもまた関連する投稿(ツイート)を1日に数回は、いまだみかける。震災から半年が過ぎた今日までの間に、…
2011年の3月4日金曜日、地元の友達T君の送別会があった。T君は有名な新進気鋭のイラストレーターで、著名なライトノベルの表紙や、連載漫画などを抱える売れっ子である。そんな彼が、3月に東京に引っ越すことになった。コミックマーケット等で出展し…
「他者」の問いは倫理的問題 相手が何考えてるのか判らなくても、 それで自分がどうなってしまっても、 それでも相手を愛おしいと思う感情をひとは「愛」と呼ぶ。 ×他者を知ろうとする(行為) ◯他者を知りたいと欲する(渇望)
私と世界の諸々との関係において、所有できるもの/できないもの、とが存在する。 そのうち、モノは所有できるもののうちに分類される。 たとえば鉛筆は、私がそれを所有することで、そして使用することで価値(意味)が付与される。 しかし、たとえば生物は…
「存在する」とは、「存在させる」という「私」の主観的な認識(判断)であり いわば「存在する」とは対象の存在から「他性」を剥奪することにおいて認識される。 〜レヴィナス『全体性と無限』を読みながら〜
SとMの関係は、つまり「所有する」「所有される」の関係である。 ところで「所有する」とは、つまり私にとって〈他なるもの〉を同一性のうちに取り入れんとする行為に他ならない。また「所有される」も同様、私を〈他なるもの〉のうちに取り入れんとし、対象…
モチベーションがあがらないのは、やる気が無いから。ではない。「モチベーションが上がらない」と「やる気が出ない」は 同義語であって、根本の原因ではない。すると、原因はなにか。「迷い」だと、私はおもう。進むべき道に「迷い」が生じているから、 ま…
ものの「なんであるか」問う場合、一般的に 「◯◯は△△である」 というが、文法的にはこれは主語+述語の形式である。 主語の部分には、その問われるものをおき 述語には、その問われるものの「性質」を嵌め込む。 つまり、ものの「なんであるか」とは、述語を…
「運動変化の速度は時間によって測定される――すなわち速いとは時間が少しで運動が多く、遅いとは時間が多くて運動が少しである――が、しかし、時間は時間によっては、その量も質も、定められない。それゆえ、明らかに時間は運動ではない」アリストテレス 時間…
僕はなぜ「他者」について知ろうとしているのか?①人見知りだから。 どうすれば他者とうまく付き合えるのか知りたい。 →私にとって他者とはどのような存在であるかを知りたい。根本。 ②柄谷『探究Ⅰ』を読んで。 柄谷は『探究Ⅰ』において(以下意訳)「お前ら…
アリストテレス『形而上学』を読んで、 この人(たち=哲学者)はことごとく言葉(ロゴス)を用いる人達なんだなと つくづく感じる。 意味や用法、論法といった言葉の諸々の機能をフル活用してるなーと。 「世界が何であるか?」とは、つまり「言葉とは何で…
「それがそもそも何であるか?」 ⇒ ・端的な意味での本質(実体) ・述語的諸存在(どれだけあるか?どのようにあるか?:性質) Q1: 述語なしに本質を語ることは可能か? (述語(記述)の束が、すなわち本質(実体)を語るのでは?) Q2: われわれは、そ…
物事の運動や転化の原理(始動因)はディナミス(能力・可能性)である。 (アリストテレス) なるほど。 可能性が、物事を動かす基となるんですね。
「私」と他者とは、 何において同じで、何において違うのか? 生物という類においては同じで 人間という種においても同じで たぶん「この私」という個において、違う。 それぞれ「この私」という個(一人称)を備えており、 それぞれが、それぞれの言葉を語…
愛とは、愛することである。 また、すべからく我々に述語づけられる物事は全て、 第一に私ありきの物事である。 愛することとは、 いままさに起こっている物事なのであり、 ゆえに私にとっての真(リアル)である。
感覚はすべからく真である。 けれども、それは対象それ自体ではない。
アリストテレス『形而上学』を読んでいる。 変わらないイデアから、可変的なもの、不可変的なものが存在するのは、 これはどうもおかしい、という内容が書いてあった。 ところで話変わって、 「変わらないもの」って何だろう。 「信念?」そうおもってみたけ…
アリストテレス『形而上学』を読む。内容はまだふんわりとしか掴んでいないんだけれど、それにしても、この書物って2000年以上前に記された(考えられた)ものだという、それだけで非常に感慨深いものがある。ちょうど日本では、弥生時代にあたるのかな…
デカルトは、より良い思考を持つための方法について「町の建物」を用いた比喩を取り上げている。町の建物は、多くの人がそれぞれに建てた建物の集りである。しかし、より良い町をつくるには、ひとりの人が建物(町全体)を総合的に設計したほうが良い、と。…
高邁なる精神(人)とは、前回分にも記したように、ものの善悪を判断する理性をもち、諸々の情念に惑わされることなく「気高い」精神の持主のことである。デカルトは、善悪を前にして様々に判断しうる存在としての、人間の「自由意志」を見出した。そのよう…
高邁なる人は「私」を尊重し、他者もまた当然、「私」と同様の状態にあることが可能だとみなす。ものの善悪を判断する理性をもち、情念に惑わされることを避ける。高邁なる人は、善も悪もなしうる自由な存在としての他者に「驚愕」する。そこにデカルトは他…
我々は他者の観念をどこまで明晰判明に認識しうるのか。 例えば石ころの観念を明晰判明に私の内に持ち得るには、物理学(幾何学・数学)を用いて演算的に知り得ることができる。なぜなら、デカルトによれば数学の観念は神に由来しており、すなわちそれは完全…
私たちの前に現れる「他者」は、ざっくり4つに分類できる。 1.対話における他者 2.視線上における他者 3.想像上の他者 4.妄想上の他者 まず1は、「対話」という行為遂行的場面において初めて現れる他者を意味する。 この場合の他者は「私」にとって予測不…
2011年の幕開けです。 私にとって、2010年は怒濤の1年間でした。 大学院を卒業し、しばらくニート生活を満喫(?)した後、 夏頃に縁あって某企業にお世話になり、現在せっせこ働いています。 仕事では何もかもが新鮮で、発見の連続です。 そして、…