過去/現在/未来(まとまりのない思考その1)


僕らの人生は1度っきり、なんて思う。「あーであったかもしれない過去」「こーではなかったかもしれない現在」……。僕はいまさら、そんな青春期の悩み(笑)を引きずっているわけだが、その類いの懊悩は別に現代の若者特有の病理というわけでもなんでもなくて、オッサンオバハンじいちゃんばあちゃん、果ては先祖代々……ずっと人間はそういうモヤモヤを引きずって生き抜いてきたのだと思う。


世の中がハイテクになって、不可視なものたちが可視化され、出来ないことが出来る(ような)気がし、しかし、そのようにして選択肢が開かれていればいる程、いつまでも決定不可能の泥沼に沈み込んでゆくばかり。打開策として決断主義的に生きることが、世の中をサヴァイブする方法論なのは、わかっている。


しかし、やっぱり僕のなかには「こーであったかもしれない過去」と「こーではなかったかもしれない現在」がカオスのごとく渦を巻いている。なぜ「現在」という位相に「過去」が入り込んでしまうのだろう、ジャマなだけなのに……なんて煩わしく感じてしまうわけなのだが。その理由はカンタン。人間は、記憶を自分自身のよりしろとして生きているからだ。人間は、記憶なしでは現在を現在と認識することはできない。


すると、時間軸の存在しない人間は、生きている実感すらないということなのだろうか。これは記憶喪失者の場合とは違うと思う。記憶喪失者は、自身の記憶(の一部)が抜け落ちていることを、少なくとも認識しているはずだからだ(出典などはないのでこれは多分、ですが)。僕がここでいう「時間軸のない人間」とは、自身の記憶がないことを認識しておらず、ただ瞬間瞬間を生きるという……なんとも現実離れした人間のモデルのことを指している。(たとえば写真がその場一瞬の光景を切り取る媒体であったとしても、そのなかには過去と未来という時間軸は含まれており(ブレッソンなどの作品を見よ)、ここでのモデルには当て嵌まらないはずだ)。そして、そんな人間は存在しえない。


うーん、思考がまとまらない。


つまり何が言いたいんだろう。僕は(笑)いや、つまりは「現在」において「過去」と「未来」が内包されるのは、これはもう当然のことなので、未来永劫避けることの不可能な事実なのだ。僕の問題意識はこのことを拠点としている。でも、それじゃあまりにツライ。生きるのがツライ。


そこで、どうすればいいか。自分自身をキャラ化したり、なんやかや加工することで「過去」を偽装して乗り切る!……などしてみても、仮面(ペルソナ)はいつか剥がれる。仮面を被り続けていると、「ほんとう」の顔が蒸れて痒くなってたまらなくなる。少なくとも、僕はそうだ。じゃあ、どうしようか。やはり「過去」と正面からむきあって、決着をつけなければいけないのだと、僕は思う。どういうことか?


(これまでもずっとそうだったけれど)いまから述べるのはあくまで僕の推論。自身(私)にとって「過去」というのは、「私」自身にしか存在しえない。しかし、それが「現在」において「可能性(あーであったかも/こーではなかった)」を提示してくるのであれば、それは「現在」の「私」にとって、一番身近な「他者」として存在しているのではないだろうか。(こういう思考に現代思想の言説を持って来たなら「デリダが〜幽霊が〜」云々みたいな話になるんだろうけれど……よくわかりません)。つまりは、ぼく達はたえず「他者」の声の聞こえる場所にいるのだ。しかも、それは元を辿ればその「他者」とは「自分自身」の生み出した幻影で、けれども取り払うことができずに苦しい。


苦しいのは、そこから逃げているから。
だから、それと「決着」をつけなければ解決しないんだと僕は思うんです。

どうやって?
知らない。とりあえず「生き抜く」ことでしか見つからないんだろう。
いまのところ、明確な答えは出てきません。
言えるのは、内なる他者と生き抜くこと。まるで村上春樹の「僕」と「鼠」との関係みたい。
30歳くらいになったら、僕も「過去」のために泣くのだろうか…。
それまでに、うまく「物語」を紡ぐ準備は出来ているのだろうか。


あー、村上春樹の「僕」みたいにしばらく井戸にでも入って考えてみっかー(笑)
すると、なぜかノモンハンに辿り着く…みたいに予想だにしなかった「過去」が曝け出されるのかもしれない。