カルヴィーノと村上春樹の民話性試論…ってか雑記。

カルヴィーノの文学講義―新たな千年紀のための六つのメモ

カルヴィーノの文学講義―新たな千年紀のための六つのメモ

 作家イタロ・カルヴィーノ(1923年~1985年)は『レ・コスミコミケ』(1965年)『パロマー』(1983年)他多くの創作を残した、二十世紀イタリアを代表する国民的作家である。また、カルヴィーノは自身の創作に加え、イタリア全土から採集した民話を編纂し、『イタリア民話集』(1956年)として出版している。同書に所収された「人魚コーラ」は、イタリア南部に位置するシチリア島メッシーナが舞台の民話である。メッシーナといえば一九〇八年の大地震を想起するが、民話「人魚コーラ」もやはり地震をモチーフとした物語である。
 ある日のこと、母親の注意にそっぽをむき、息子コーラは朝から晩まで海に入り泳いでばかりいた。とうとう叫ぶのに疲れた母親はコーラに呪いの言葉を浴びせてしまう。「コーラ! おまえなんか魚になってしまえ!」不憫にも呪いは叶えられ、コーラはたちまちに半人半魚の身体になってしまう。その不自由な身体ではコーラは陸に上がることもままならず、絶望した母親はまもなく死んでしまった。
 のち王さまの耳に人魚コーラの噂が伝わり、王さまはコーラにシチリアの海底調査を依頼する。これは前記した地震に関係しており、調査を終えたコーラは王さまに、「メッシーナ岩礁の上に築かれていて、その岩礁は三本の石柱に支えられています。そして一本の石柱はまともなのですが、一本は崩れかけ、残る一本は折れてしまっています」と報告する。当時メッシーナの人々が抱いていた、いつ起こるとも知れない地震に対する恐怖が窺える。
 しかし、ここではコーラに注目したい。王さまの依頼のもと、コーラはシチリアの海底を探索するのだが、ここにはカルヴィーノ自身の文学論に照応するものが見受けられる。ハーヴァード大学での講義メモを書籍化した『カルヴィーノの文学講義 新たな千年紀のための六つのメモ』の中で、カルヴィーノはロシアの昔話研究家ウラジミール・プロップ『昔話の形態学』を引用し、このように述べている。


 民話では、別世界へ飛んでゆくことはきわめて頻繁に見られる状況です。プロップが『昔話の形態学』のなかで列挙した「機能」のなかでは、こんなふうに定義される「主人公の移動」の形式の一つなのです。「たいがい探索の対象物は〝他の〟、〝別の〟王国にあり、それは水平方向で非常に遠く離れていたり、垂直方向で大変高い所か非常に深い場所であったりする」。(中略)民俗学フォークロアが記録するこのようなシャーマン的、魔術師的な機能を文学的な想像力と結びつけようとすることが牽強付会だとは、私には思えません。それどころか、どのような文学的な営みのなかにも暗黙のうちに含まれているもっとも奥深い合理性を、照応する人類学的な営みのなかに探し求めてみるべきだと私は考えます。


 これは同書から「軽さ」と題された章の一文である。本書にてカルヴィーノ古今東西から作家、作品を取り出し、紆余曲折しながら持論を展開する(「私がお話していることにはたくさんの話の筋が混線しているのでしょうか? どの筋をたぐってゆけば結論を手にすることができるのでしょうか?」)。そんな中、先の引用部分はとりあえずの結論にあたる。民話に含まれる要素(シャーマン的、魔術師的な機能)が文学全般に共通する機能であること、そのことは作家として看過できない問題であったのだという気迫が感じられる。
 ここでひとまずイタリアを離れ、日本の作家に目を向けてみたい。先ほどのプロップの文章だが、民話において主人公の見つけ出さんとするものは「水平方向」ないし「垂直方向」に遠く離れた場所にある、と記している。このことから、村上春樹作品における「井戸」について考察を試みたいとおもう。村上は作品間の垣根を超えて同様のモチーフ(双子・影・森など)を扱うことはよく知られているが、井戸もまた同様に様々な作品で描かれている。
 処女作『風の歌を聴け』では架空の作家、デレク・ハートフィールドの著作(「火星の井戸」)として、また『ノルウェイの森』では直子による「野井戸」の話など、その他あらゆる作品に点在しており、それについては本人も認識しているようである。――「井戸というのは、考えてみたら、処女作の『風の歌を聴け』以来、僕の大事なモチーフになっているみたいですね」(「メイキング・オブ・『ねじまき鳥クロニクル』」『新潮』一九九五年十一月号)。このような「井戸」のモチーフは一九九五年に完結した『ねじまき鳥クロニクル』で結晶する。同小説は、妻であるクミコの失踪を境に主人公「僕」(オカダトオル)は井戸の奥底に潜り込み、そこで「僕」は奇怪な体験を目の当たりにする。ここで井戸は、実世界である「こちら側」とはまた違う「あちら側」への入り口であり、「僕」は互いの世界を行き来することになる。井戸での「壁抜け」が成功すると、「僕」は「あちら側」の世界で謎の女性と出会うことができるのだ。小説内では明確にされていないが、謎の女性は失踪した妻クミコであり、「僕」はクミコを「こちら側」へと引き戻そうと試みる。
 ところで井戸に「潜る」とは、すなわち「垂直方向」の移動である。さらに「僕」の目的はクミコを探索し、「こちら側」とは別の世界である「あちら側」から連れ出すことにあるが、このことはまさにプロップの論考と合致する。
 村上は「もちろん井戸という存在には、自分の足下を、自分の意識を、どんどん深く掘っていくという原初的なメタファーはこめられている」(註)と述べるが、「僕」が井戸に潜るということは、すなわち自我を発見しようとする試みであると言える。対してカルヴィーノは民話の編纂を経て、それぞれ民話の持つ機能から文学の可能性を見いだそうとした。「主人公の移動」は「探索」を目的とするが、文学が自我の探求を目的とするのだとすれば、イタリア、日本を代表する両作家の注ぐ視点は民話を介して(村上の場合は無意識的にせよ)共通していたのではないだろうか。