愛の重量

ときに、愛が「重たく」感じてしまうこと、ありませんか。


逐一、干渉してくる。
すぐ寂しがる。
無理をしているのではないか。
我慢させてしまってはいないか。
本当にわたしでいいのだろうか。
気持ちが伝わらない。
いっそ自由になりたい。
愛してるという言葉が、重たい。


ほんとうに、愛の「重さ」はさまざまです。


ところで。
愛とは、とても「重たい」ものです。
とてもとても、「重たい」のです。
そして、その「重たさ」の分だけ、愛は大切なものなのです。


もしある時、その「重たさ」に疲れてしまったとしても、
あなたは、その愛を肩から降ろしてしまってはいけません。
いいですか。
決して、決して、降ろしてしまってはいけません。


そもそも。
なぜ、あなた達はこうして今、二人なのでしょう。
それは、喜びや悲しみ、怒り、嫉み、そして、最高の幸せ。
それらの想いを一緒に分かち合うためではなかったでしょうか。


ならば、その愛の「重たさ」も二人で分かち合いましょう。
愛の「重たさ」を、あなただけが一人で抱え込むことはありません。


あなたが持っている愛を、相手にも分け与えてあげましょう。
そうすれば、きっと愛の「重たさ」は、とたんに心地良い「重さ」へと、
変わっているはずです。


愛とは、とても「重たい」ものです。
その、ずっしりとした「重たさ」は、あなたへの愛の重量です。


もしあるとき、愛を「重たく」感じることがあったなら、
どうか、その愛を、
あなたのいちばん大切なひとへと届けてあげてください。

他者について試論


「対話による他者理解」が、成立するとは限らない。
もちろん、全て成り立たないわけではない。
それは時に成立する場合があるのと同様に、
成立しない場合もあるというだけだ。


なぜなら「対話」の前段階である「対話を要求する」ということ、
それ自体は一方的なエゴであるかもしれないのだから。
相手が「対話」を求めていなければ、何も始まらずにそこで終わる。


「対話」が他者理解に繋がることはもちろんだが、
しかし、その「対話」を相手が要求しているとは限らない。
ゆえに、他者との「対話」は成立するとは限らない。


「対話」による他者理解(の希求)は、あくまでも「私」の理想である。
その時、すでに他者は理解する/されることを望んではいないかもしれないのだから。
他者理解を欲するとき、そこには誰もいないかもしれない。


それでも、私たちは「対話」をやめるべきではない。
他者を理解しようと躍起になる姿は、まるで笊で水をすくう滑稽さに似ている。
しかし滑稽であっても、止めてはいけない。
他者理解を止めたとき、そこは自我の砂漠である。


「対話」は弁証法でもなければ、方程式でもない。
ましてやピストルなんかでは、もちろんない。


恋をせよ。愛せよ。
その過程と結果が「対話」なのだ。

メモ

物語、とは

伝説
共同体がタブーとして排斥したもの。

都市伝説
都市がタブーとして排斥したもの。
(どこか奇形の雰囲気あり)


歴史。


歴史をかたる行為

差別。

土地と、そこに住む人々。


身分、家柄、場所性などなどの「高低(のひずみ)」が
物語をうむ




物語
土地
差別
語り
伝説


伝説
実体験(タブーにふれたこと)の抽象化(一般化)。
⇒ 一般化、の段階における「鬼」「山姥」「鬼畜」などのイメージ。
 ⇒都市伝説における「奇形」性(一般化の段階)

地震についての長い文章⑤


3月11日を境に変化した物事がある。大きい物事から些細な習慣まで、多かれ少なかれぼくたちを取り囲む世界は日々変化し続けているのだが、今回はとても個人的な変化について述べてみたい。ぼくの、震災以降の「ニコニコ動画(以下:ニコ動)」への興味・関心である。


本題の前に少しだけ迂回したい。先に「個人的な変化」と記したが、実のところ、そう明言してもよいのか未だ明確でないのが正直な実感である。結論から言えば、あの日以来、ぼくのニコ動に対する関心はほとんど冷めてしまっている。そのことが、単にぼく個人の問題なのか、それとも、そもそもニコ動のコンテンツが本質的に面白くなくなってしまったのか、そのいずれなのかを、まだはっきりと断言することができない。


ぼくがニコ動を本格的に視聴するようになったのは、いまから約3年前になる。実はもっと以前に会員登録はしていたものの(「ニコニコ動画(RC)」時代に登録していた)、当時はさして興味が持てなかった。今ほどコンテンツが活気付いていたわけでもないし、認知度も低かった。いわば「知る人ぞ知る」サイトだったように思う。それから1年と少し経って、友人T(②に出てきたイラストレーターの友人)のすすめで、ニコ動の「ゲーム実況」を観るようになった。


※ゲーム実況を御存知ない人のための簡単な説明: ゲーム実況とは、動画投稿者がテレビゲームをプレイしながら淡々と喋り続ける動画のこと。もちろん素人の喋りなので、中身はグダグダだったりするのだが、案外そのゆるい「空気感」にハマってしまう、とても不思議なコンテンツである。お笑い芸人「よゐこ」有野の番組「ゲームセンターCX」が同様の趣旨の番組であり、そこから火が付いたといわれている。云々。


ゲーム実況にハマって以来、ぼくは暇さえあればニコ動を開くようになった。毎日、ランキング(デイリー・毎時ともに)をチェックしながら、いまもっとも話題の動画を見逃すまいとしていた。ニコ動側にとってみれば、とてもありがたいユーザーだっただろう。そんな毎日が(ほんと飽きもせず)3年間も続いたわけだ。


だが、その興味はピタリと止んだ。震災以降、ニコ動を開く回数、視聴に費やす時間が明らかに減った。なぜだろう。単純に、興味が薄れてしまったといえばそれまでなのだが…。もっと根は深い気がする。



まず、興味が薄れてしまった理由が「震災」にあるとすれば、それはどういうことなのだろう?簡単に言ってしまえば、「こんな非常時に、ふざけた動画で笑える気持ちにはなれない」ということなのかもしれない。だが、それが本当の理由ではない気がする。


では、他にはなんだろう。もしかすると、ニコ動の特徴「コメント機能」が関係しているのかもしれない。動画の右から左に流れては消えて行く、あのコメント機能の存在に面白みを感じられなくなったのかもしれない。いまこうして書き記しながら、それは一理あると思う。


とはいえ、そもそもぼくはニコ動のコメントをいつもOFFにしている(動画内には流れず、動画の右側でコメントを追っているだけだ/USTREAMみたく)。その理由は単純で「動画のなかにコメントが現れるとジャマ」。ただそれだけである。だが、コメントは確認しながら観ていたので、まったくコメントを無視していたというわけではない。むしろコメントがよい「ツッコミ」になることもしばしばで、いまさら言うまでもなく、コメントなしではニコ動にアップされているコンテンツの面白みは半減するだろうとぼくは思っている。そしてなにより、コメント機能の良いところは、なんといっても「疑似同期」感だろう。日本中、世界中どこにいても同じコンテンツに対するレスポンス(コメント)で感想や感情を共有できることの「つながってる」感。


だが、そのコメントにすらあまり興味がもてなくなった。あくまで主観的な意見なのだが、3月11日以降のニコ動におけるコメントの「質」が落ちている気がするのだ。それと同時に、コンテンツの「質」もまた、低くなっているのではないかと感じる。具体的には、政治家の会見等の動画でそれを非難するコメントであったり、誰かひとを非難する動画、いわゆる「祭り」の動画やコメントが目立つようになっているとおもうのは、ぼくだけだろうか?もともとぼくは、そういう(しょうもない)コンテンツには興味はないのだが、それらがあまりに目についてしまうようになり、次第にランキングのチェックを怠り、いつのまにかニコ動そのものにも興味が薄れてきてしまっていた。


ただ震災以前から「祭り」動画やコメントは多数存在していたはずなので、もしかすると、ぼくの側が余計にそういった動画に対して意識的になっているだけなのかもしれない。しかし、だとすると、それはなぜだろう?


ぼくがこれまでに綴ってきた一連の文章の文脈からすると、たぶん「語る」ことが関係しているのだとおもう。おそらく、そういったコメントをする人の「語る」ことへの無責任さに、これまでにもましてウンザリしているのかもしれない。そうした負の感情で「つながっている」感を共有することを、ほんとうにつまらなく感じている。特に震災以降、その気持ちはたしかに増している。これまでだと「あーまたやってるな」で無視できたものが、どういうわけか無視できなくなってきている。「まだそんなことをやってるのか」と、怒りすらを覚えてしまう(ぼくが怒る理由なんてないんだけれど…)。本音をいえば、ぼくとしては誰が誰を非難しようが好きにすればいいし、こっちに火花さえ飛んでこなければ勝手にしろというスタンスなので、だから、そういうものは単にスルーすれば良いのにもかかわらず、なぜだか以前のように無視できなくなっている。


ただはっきりと言えるのは、
震災以降、ぼくのなかでニコ動は終わった。



⑥につづく。

地震についての長い文章⑥

「がんばろう!日本」


震災後すぐに、このような標語をよく見かけるようになった。ポスターや広告、商店街の店先、さらには企業のHPやパンフレットにも、上記の標語を見たことがある。


とここで、さっそく愚痴で申し訳ないが、そもそも標語とは何のためにあるのだろう?標語を目にして「あっそうだな、ぼくも/わたしもそうしよう!」などと思うひとが世の中に100人もいるのだろうかと、ぼくはいつも訝しく感じる。思うに標語とは、そのメッセージを発する主体が「同じ、われわれ」といった、きわめて曖昧なものであり、「とうぜんキミもそうおもうよね(でないとオカシイよまじで)」というくらいの圧力を「われわれ」から「われわれ」に与えるものである。要は、発言主体とその受け手とがウロボロス状に連なっているのであって、そのことにぼくはいやおうなく矛盾(釈然としない感じ)を覚えてしまう。つまり簡潔に言えば、「いや、ぼくが言いたいのはそんなことじゃないんだけどなあ」という居心地の悪さ、そして「いや、ってかオマエ誰だよっ」とおもわずツッコミを入れたくなる間抜けさ加減を標語一般に読み取ってしまう。


冒頭の話題に戻ろう。「がんばろう!日本」のコピーの出来が良い悪いは別として(たぶん、そんなに良い出来ではない。だって、そのまんまだし…)、ぼくにはこの標語がほんとうにバカらしくおもえて仕方がない。確かに、日本はこれから復旧そして復興を目指していくべきだし、そうするとまあ「がんばろう」という意気込みはとても大切であり、むしろ積極的にそうあるべきなのだが、いざ標語になって聞かされると「うっせーよバカ」と思ってしまう。「オマエに言われたくねーよ」という感じ。怒りすら覚えてしまう。一体どういうことなのだろう。


思想家の東浩紀は、自身が編集する雑誌『思想地図beta2』の冒頭分でこのように語る。

震災でぼくたちはばらばらになってしまった。ちがう、と言うひとがいるだろうか。震災でぼくたちは「ひとつ」になったはずだと、日本は連帯を取り戻したはずだと主張するひとがいるだろうか。たしかにそのような側面もあるのかもしれない。いや、あったのかもしれない。震災直後の日本社会の高揚は記憶に新しい。マスコミもネットも震災情報で一色になった。企業は競って被災者に手を差し伸べ、義援金はあっというまに記録的な金額へ駆け上った。自衛隊の迅速な救援が賞賛され、官房長官がなぜか英雄になり。挙国一致内閣の結成が囁かれた。多くの人々が(ぼくをふくめ)、日本はこの未曾有の災害を奇貨としてふたたび公共の精神を取り戻し、長い低迷を抜け新たな国に生まれ変わるのかもしれないと夢を見た。しかし、いま、五ヶ月後の現実はどうだろう。ぼくたちは「ひとつ」になっているのだろうか。とてもそうは言えない。(「震災でぼくたちはばらばらになってしまった」、『思想地図beta2』P8~P9)


ぼくは、この東氏の文章にはっとさせられた。そうだ、ぼくたちは震災を機に「ひとつ」になどなっていなかった。むしろ「ばらばら」になってしまったんだ、と。ただ、氏も後に述べているが、そもそもぼくたちは「ひとつ」だったのではなく、ずっと「ばらばら」だった。そのことが、震災をきっかけに、より明瞭となっただけなのだ。まるで束で繋がった何本もの振り子が、根元から断ち切られ、ばらばらになって落ちてしまったかのように。


このような考え方をもとに、先ほどの標語の問題を顧みてみよう。すると、この標語の醸す違和感が浮き立つようにおもう。どういうことか。それは「がんばろう!日本」の、「日本」にもはや連帯のイメージが湧かないのである。「日本」という集合が、もはや「ばらばら」なのだ。少なくとも、ぼくにはいまその実感がある。


もちろん個々それぞれが「がんばろう!」と思う気持ちを持つのはとても良いことだとおもう。そうでもなきゃ、本当にやりすごせないほどの出来事、惨事だったのだから。だが、「がんばろう!」に結びつく述語(主語?)が、なぜ「日本」なのか、ぼくにはよく理解できない。その理由は明白だ。なぜなら…


「ぼくは〈日本〉じゃない。」


ぼくは、「日本」という漠然とした概念、集合ではない。
ぼくは「がんばる」。そして「日本」も「がんばる」。だが、ぼくは「日本」に「がんばろう!」と言っているわけではない。ぼくは被災地や、実際に被災された方々に対して「がんばろう!」という言葉を伝えたいという気持ちはある。もし、ぼくが実際に被災していたとして、そして、大切なものを失ったとして、誰かに「一緒にがんばろう!」といわれたなら、少なからず心動かされるだろう。だが、ぼくは「日本」ではないから、「がんばろう!日本」といわれても、その言葉を受け止める器を、始めから持っていない(憶測だが、その思いは被災された方々も多かれ少なかれ感じておられるのではなかろうか)。


とにかく、「がんばろう!日本」のフレーズには、誰が、誰に対して、なんの目的で発せられているのか、まったく見えてこない。せいぜい、企業または団体、そして日本という国のイメージアップ(広告のコピー的な扱い)でしか用いられていないようにおもう。ぼくは、そんな言葉に同調も共感も覚えないし、発したくもない。「がんばろう!日本」という言葉は、人と人との連帯の想いを微塵も表してなどいない。残念なことに「日本」が「ばらばら」であることを如実に感じさせる言葉として、本来の役割からはかけ離れた意味を与えられて存在している。「がんばろう!日本」は、「一緒にがんばろう!」という想いでは、決してない。これはぼくの、ぼくたちの言葉じゃないはずだ。そう強く思う。


未曾有の惨事を前に、ぼくたちは、ぼくたちなりの「言葉」を持つ必要がある。



⑦につづく

地震についての長い文章③


そもそも、僕はなぜ今こうして文章を書いているのだろう。およそ半年が経過した今、地震について、何か僕なりに思ったことや考えたことを記さねばいけない、という想いにかられたのは、なぜだろう?いや、その理由を探す為に、ぼくはこうして文章を書いているのだ。だから、迷うよりまず、書かねばならない。


地震当日の、ラジオの話をしてみたい。
地震が起きた当日、ぼくは仕事をしていた。事務所に付いているFMラジオは、3月11日の昼過ぎまで、軽快なポップをながし続けていた。DJの聞き慣れた声は、ノリよく明るく、いつものように視聴者のリクエストに応えていた。11時から始まったそのラジオ番組は、お昼過ぎの15時で次のDJにバトンタッチされる。――はずだった。


14時46分、地震が起きた。(当時の状況は前述した通りだが〈①参照〉)ぼくはその時、とても慌てていた。混乱していた。思考が目まぐるしく変化していた。しかし、何も考えることができなかった。想像と、現実とがあまりにかけ離れていたからだ。ぼくは揺れが収まるのを待った。不安だった。しばらくして揺れが収まっても、目眩が続いた。気分がわるくなった。暖房の効いた室内で、えも言われぬ悪寒を感じていた。


ふと我に返って、どこからか女性の声が聴こえた。ラジオだった。ラジオはずっと流れていたはずだった。けれども、その時までぼくの意識はラジオになぞ向く余裕すらなかった。ようやくひとつ息を付き、まるで映画館がゆっくりと明かりを取り戻すようにして、ラジオDJの声が聴こえてきたのだ。


――さきほど、地震がありました。大阪府では震度3…


そんな内容だったと思う。たぶん、その時点ではラジオ局も正確な情報を得ていなかったのだろう(まさか宮城県でM8クラスの地震が起きていようとは)。とにかく、地震が起きたので、安全な場所に避難して下さい、と伝えることでラジオ側も精一杯の様子だった。


そうして、15時になった。思わぬ形でバトンを引き継いだDJのN氏は、当然ながら番組内容を大幅に変更せざるを得なくなった(番組のためにネタやジョークも考えていたのだろうが、ぜんぶいつかに後回しとなってしまった)。ともあれ15時時点では、たしかすでに宮城県沖が震源であることは判っていたのだとおもう。N氏は、番組開始直後から地震の情報をただひたすらに伝えることに専念した。だが、淡々と告げられる事実の、あまりに現実離れした中身に、N氏もまた戸惑いを隠しきれない様子だった。普段はエネルギッシュな彼の喋りが、すっぽり空洞化してしまっていた。緊急時に情報を伝えることがラジオの役割でもあるがゆえ、職業柄、彼は事実を述べることしかできなかったが、困惑するN氏の声色から滲むのは、こんな言葉だった。


「なにがなんだか、俺にも全然わからないんだよ……まったく……」


しばらく地震情報を述べた後、N氏の番組は途中終了した。それから数時間、ラジオは当たり障りのない洋楽シンガー達(セリーヌ・ディオン的な)の楽曲がエンドレスで流し続けた。たぶん、テレビでいうところの「しばらくお待ち下さい」状態だったのだと思う。局側も対応に追われていたのだろう。洋楽は、その日ぼくが事務所をでるまでずっと流れ続けていた。


④につづく。

地震についての長い文章④

③に引き続き、震災当日の「ラジオ」の話についてもう少しだけ考えてみたい。


震災から数週間、ラジオのDJ達は、自分が「語ること」に対して、これ以上なく躊躇していたようにおもう。少なくとも、ぼくにはそう感じとれた。


そもそもラジオというのは「音」のメディアだ。さらに言えば「音だけ」のメディアともいえよう。テレビは、仮に音が消えたとしても画面が動いていれば問題ない。もちろんテレビが故障しているのなら別だが、それはまた別の問題だ。ここで問題とするのは、音が消えた時に「放送事故」となるか否かである。例えば、ドラマなどで男女が無言で向き合うシーンがあったとしても、それはそういうシーンなのであって、音が聴こえないというだけでは「放送事故」たりえない。一方、ラジオの場合はどうか。先述したように、ラジオは「音」のメディアである。ラジオから「音」を取り払ってしまえば、完全に放送事故である。後にむなしく受信機本体のみが残る。


つまり何が言いたいかというと、このような特質上、ラジオは常に「音」を発信し続けなければならないということだ。さらに言えば、ラジオDJは絶え間なく「喋り続け」ねばならない。――想像してほしい。ラジオを聞いていたら、突然DJが無言になったとしたら、あなたはどう感じるだろうか。ラジオが壊れたか、電池が切れたか、はたまた電波が悪くなったか等が原因だと、普通は考えるだろう。けれどそれらは全部間違いで、実はラジオが壊れたわけでも、電波がわるくなったわけでもなく、単にDJが無言でいるだけだったとしたら…。それこそ「放送事故」である。それはラジオの異常事態であり、言うまでもなくDJ失格である。


いささか回りくどくなったが、ようやく冒頭に戻ることにしたい。震災から数週間、ラジオDJ達は自分が「語る」という職業であることに対して、本当に心から戸惑っているようだった。そして、その戸惑いを私たちリスナーに対して、隠すことなく正直に伝えていた。いや、隠しきれていなかった、というのが正直なぼくの感想だ。「こんな時に、私たちDJは何ができるのだろう」と。――ラジオDJとして「語る」ことをしなければ放送事故になる。けれども、この未曾有の惨事を眼前に、私たちは何かを「語る」ことなど出来るのだろうか?安易に「安心」、「安全」を伝えるのもはばかられるし、かといってリスナーを不安な気持ちにさせたくない。けれど正しい情報を送ろうにも、なにが正しいのかも判らない…。上っ面の嘘で塗り固められた言葉を語るのだけは嫌だ。でも、私たち自身に迷いが生じている以上、「本当を語る」ことは、とても難しい……。


震災からしばらく、ラジオの向こう側からそんなラジオDJ達の心中が、聴こえた気がした。そしてぼくも同じように、その時、語る言葉を見失っていた。


こうした暗い状態の中、ぼくを勇気づけてくれたのは、FM802のパーソナリティー中島ヒロトさんだった(ちなみに③のN氏とは中島ヒロトさんです)。ヒロトさんは同局のなかでも人一倍、元気印が売りのDJである。いつも明るく(というかハイテンションで)て楽しく、そして威勢のいい喋りが特徴で、大阪で「ヒロトさん」といえば甲本ヒロトではなく中島ヒロトというくらい(?)、有名なDJ兼テレビパーソナリティーである。しかし、そんなヒロトさんだが、震災から数日、誰が聞いてもわかるほど、あきらかにトーンが落ちていた。ハリも威勢も抜けてしまって、なんだか借りてきた猫のようにおとなしかった。「ヒロトさん、元気だしてください!」とリスナーもおもわずお便りを出したくなるほど、心底から沈み込んでいるようだった。


震災から3日後、3月14日のブログエントリーには、こう記されている。ブログタイトルは、「DJ」。

DJ


月曜日になり、自分のレギュラーの時間が来た。

難しい。正解なんてない、って思うけど、やはり、何を、どう、伝えればいいのか、難しい。

でも、今は、精一杯、一生懸命、やるだけ。

放送することで、少しでも誰かの力になれれば、と。


勝手な想像だが、ヒロトさんの脳裏には「語る」ことを辞めようという考えがよぎったのではないか、そんな気がした。そんな思いを1度や2度ならず、何度も何度も反芻しながら、呑み込もうとして呑み込めずにいたのかもしれない。「僕の喋りが、被災地に、被災者のみんなになにを届けることができるのだろう……。」しかし、ヒロトさんは決して「語る」ことを辞めなかった。それは「職業だから仕方ない」といったマイナス選択ではなくて、「これがぼくの職業だからこそ、語り続けなければならないんだ」といったプラスの選択、使命感、さらにいえば「責任感」だったのではないか。


翌日、3月15日のブログエントリーには、そんなヒロトさんの決意がうかがえる。当日のブログから抜粋したい。(タイトル「少しずつ」)

(タイトル:「少しずつ」)


相変わらず、何が正解かは分からないけど。

「そうじゃない」って思われることもあるかもしれない。でも、「そうだ」って思われること、「元気が出ました」って感じてもらえることを発信する為には、恐れてるばかりでは進めないから。

とにかく、マイクの前で、伝える。自分のキャリアを信じ、自分の軸を信じて、放送します。皆の言葉と、自分の言葉を。


「明日もあなたと一緒です」


震災を前に困惑しながらも、ヒロトさんの強い気持ちが見て取れる。「自分のキャリアを信じ、自分の軸を信じ」ながら、「皆の言葉と、自分の言葉」を「とにかく、マイクの前で、伝える」こと――、それこそが僕の仕事なんだよ!と。関西のひとが元気でいなきゃ!その元気を被災地に届けなきゃ!そう、ヒロトさんは何度もラジオでわたしたちに伝えてくれた。そのおかげで、しばらくぼくの胸にかかっていたモヤもまた、少しずつ晴れていった。


戸惑いを前に「語る」ことは、とても難しい。
しかし「語る」ことなしには、決してどこにも進めない。


それが今回、ぼくがヒロトさんから教わったことだ。



⑤につづく。


中島ヒロトのUSUAL CREATES】
中島ヒロトのUSUAL CREATES